恋する君を描きたくて 第1話

INNOCENT COLORS。
敢えて表題を付けるとしたらこんなところだろうか。
汚れを全く知らない、雪のように真っ白に彩られたキャンバス。それはあまりにも純粋で無邪気な、彩色されたとは思えないよう透き通った純白が自分の瞳に写っている。
まあ実際何にも彩色されてないんだけど。
今日も筆を持った手が全く進まず、イーゼルにセットしたキャンバスは最初に見たときと同じ白。つまりは何も書いていないという事だ。
やる気がない訳じゃない。ない訳じゃないけど、描きたいものが無い。秋の様相を呈した木々の風景も、今の僕が心の底から描こうというものとは違うように思える。
「・・・帰るか」
もうすぐ学校も戸締りされる時間だ。これ以上部室にいても絵は進まないだろうし、帰る事にした。


昼間とは打って変わって人気の失せた廊下を歩き、誰もいなくなった玄関で靴を履き替える。
そのまま自転車置き場で自分の自転車に乗り帰路に着くつもりだったが、何やら話し声が聞こえてきた。誰もいないと思っていたが、どうやらまだ人が残っていたらしい。
とはいえ、自分には関係のない事だ。そう思いつつも、好奇心からついそちらに目を向けてしまう。
2人。男子生徒と女子生徒が話している。女子生徒の方が敬語で話しているらしく、どうやら男子生徒の方が上級生のようだ。この時間にまだ学校に残っているという事は、おそらくあちらも部活だろう。となれば、男子生徒は2年生と思われる。3年生が残っている可能性は低いだろう。受験勉強に忙しいこの時期、図書室で勉強していてもとっくに閉まっているはずだし。すると女子生徒の方は同級生ってことか。知り合いだろうか。
そんなことを考えつつ、僕は女子生徒の顔を見た。


僕は言葉を失った。知り合いという程ではない、ただのクラスメイト。名前もうろ覚え。しかし秋の夕暮れの紅い陽光が斜めに差した彼女の顔はあまりに美しく、僕の視線は彼女に釘付けになってしまった。描きたいと思えるものがここにあった気がした。
僕が見とれて突っ立っていると会話が終わったのか、男子生徒は向こう側へ、彼女はこちら側に向かって歩いてきた。
「あ、沖田君、どうしたの?」
「え?あ、僕?」
言い方を変えればぼーっとしていた僕は、不意に声をかけられて間抜けな返答をしてしまう。なんか目の前の状況は頭には入っていたけど、それを脳内で処理してなかったみたいだ。
「あはは、他に誰もいないってば」
確かに自分たち以外に誰もいないのはさっき確認済みだ。
「うん、そうみたいだね。なにかな?えーっと・・・」
「木村。木村美奈。酷いなあ、2学期になったのにクラスメイトの名前も覚えてないの?」
「・・・ごめん。人の名前覚えるの苦手なんだ」
「あんまり私たち話した事ないしね。だけどちゃんと教えたんだから覚えてよ?」
「わかった。木村さんだね」
「そっ。それでどうしたの?なんかぼーっとしてたけど・・・」
「あ、それ?それは・・・」
まさか君の顔に見とれて忘我の境地にいました、なんて言える訳もない。
「いや別に。それより、さっき話してたのは上級生?」
僕は話を切り替えて逃げる作戦に出た。こういう時は深く追求される前に話題を転換するのが一番だ。多分。
「そう。渡部先輩っていうの。部活の先輩なんだけど、知ってるの?」
「んにゃ。てゆーか、木村さんの部活って何?」
「そういえば言ってなかったね。吹奏楽部。楽器はフルート担当。先輩も同じパートだからよく話すんだよ」
「ふーん」
それだけじゃないような気がする。なんとなく、だけど。
「でもただの先輩って訳じゃないよね?」
気になったままに言葉にしてしまう。言った瞬間にちょっと踏み込みすぎた事を言ってしまったと思ったけど、もう言っちゃったんだからしょうがない。
「えっ?嘘、わかっちゃったの?」
ところが彼女は驚いてあっさりと何かある事を白状する。
うーん、僕の観察眼も捨てたもんじゃないな。ちゃんと修行すれば探偵になれるかも。実際の仕事は身辺調査とか浮気調査とか、あんまり華やかなものじゃないらしいけどね。そもそも夢は別にあるんだし。
「うわー、恥ずかしい・・・」
そう言って彼女は顔を手で覆ってしまう。うーん、何がどうなっているんだかさっぱりわからないぞ。なんだか彼女は僕の言葉に過敏なまでに反応しているみたいだ。
情報を整理してみよう。部活の先輩と会話。よく話す。ただの先輩じゃない。彼女にとっては恥ずかしい。
・・・もしかして
「先輩が好き、とか?」
「わーわーわー」
両手を上下に振って彼女が動揺する。なんか当てずっぽうで言った割に大当たりだったみたい。やっぱり探偵に向いてるかも。
「へぇー、そうなんだ。いいねー、青春だねー」
「ひ、冷やかさないでよぅ・・・」
「いいじゃん。頑張んなよ。僕も応援するからさ」
深く考えもせず、何気なく言った言葉だった。


待てよ?僕は彼女の事を描きたい、そう思った。今の会話の流れからすると、彼女は恋をしていたからこそ輝いて見えたんじゃないだろうか。ならば、彼女を描くためには彼女が恋をしている事が必要条件になってくる。ふむ、つまり本当に応援して言葉は悪いけど恩を売る形に持っていく、そんで彼女に僕の絵のモデルになってもらう事を快諾してもらうってのはどうだろうか。我ながら打算的な考えだとは思うけど・・・。
「応援する代わりにさ、ちょっと頼みがあるんだけど・・・」
「頼み?うーん、その前に応援してくれるって、具体的に何か考えがあるとか?」
確かにあるにはあるんだけど、彼女の意図とはかなり違うな。
「それは後で考える。頼みっていうのは、僕の絵のモデルになって欲しいんだ」
「モデルっ?なんで私が?」
「いやー、なかなか良いモデルが見付からなくってさー。木村さんを偶然ここで見かけて、描きたいなって思って」
「んー、じゃあ別に誰でも良いってこと?」
「んなこたーないぞ。これでも美術部の一員なんだから、選定眼に関しては任せてくれ。灯台下暗しとはよく言ったもんだね、まさか同じクラスにこれほどの素材がいたとは」
「・・・もしかして口説いてる?」
あー、そう聞こえても仕方ないよな。ぬう、このまま引き下がってなるものか。この機会を逃したらもう描きたいものなんか当分見付からないだろう。それじゃ次のコンクールに間に合わない。もう絶対間に合わない。
「ちょっとキザだったかな。なんつーか、言葉にするの難しいんだよね。フィーリングだからさ、こういうのって」
「なんだかよくわからないけど、モデルにしたいって言われて悪い気はしないし。頼みってそれ?」
「そう。僕が木村さんの恋を応援してそれが実ったらモデルになる。どうかな?」
しばし彼女は考え込んで、そして顔を赤らめながら僕に言った。
「まさか・・・脱いだり・・・する?」
思わぬ方向から飛んできた言葉に、呆気に取られる僕。
「ないないない、絶対無い」
「なんだ、良かったあ」
うう、僕ってどんな風に思われてるんだ・・・ちょっと泣きそうだよ・・・。しかし次に彼女の発した言葉が、気落ちした僕を一気に有頂天にさせた。
「わかった。なんか沖田君、真面目に言ってるみたいだし信用するよ。でも約束したんだから、ちゃんと応援してよねっ」
おっしゃきたあああああ!!心の中で強くガッツポーズを決める僕。あまり顔には出さないようするけど、やっぱりあからさまに嬉しそうな表情になってしまうのは止められなかった。
「ふふ、これから大変だよ?私、結構臆病だから、一筋縄じゃいかないと思うよ?」
「おいおい、他人事みたいに言うなって。他の誰でもない、自分のために頑張ってよ」
「えー、沖田君のためにもなるんだから、『他の誰でもない』って事はないでしょー」
「うっ、そうだった」
言いながら僕は右手を差し出した。それを見た彼女も右手を差し出し、そして2人は約束したことを確認する握手をしたんだ。初めて触れた彼女の手は、あったかくてやわらかくて。


そう、それがきっかけ。いつもと同じように訪れた放課後の、ほんの小さな変化が全てのはじまり。


第2話につづく