若者言葉

こんな事を考え始めるともう自分も若くないんだなあと思わざるを得ないのですが、最近の若者の言葉の乱れは酷いものですよ。


私も何処かの大学教授のようにいちいち目くじら立てるほど日本語に精通している訳でもありませんし、ぶっちゃけ面倒くさい。前から変な若者言葉はマスコミでいくつも語られてきましたけど、特に嫌悪感のようなものは抱かずに受け入れてきました。


今や当たり前のように使われている「イケメン」やら「フリーター」だって最初は俗称でした。一時期流行ったんだかどうか知りませんが、「チョベリバ」(超ベリーバッドの略)などもむしろ面白いと思っておりました。蒸し返すようですが「ホアアーッ!! ホアーッ!!」だって別に平気なのです。ただ・・・まあいいや、これ以上言うと余計に敵を作りそうですし。


割と若者言葉に肝要であると自負していた私ですが、昨今どうしても見過ごせない言葉が2つばかりあるのです。


1つは「〜じゃないですか」という言葉。


これは困った事にいい年した大人でも使っている場合があるんですよ。これ自体に問題は全くありません。使い方が問題なだけで。例えば、「道端に500円玉が落ちていたら拾うじゃないですか」などはわかります。けれど「私、犬飼ってるじゃないですか」とか突然言い出す輩がいるのは困りものです。


あんな、常識のように言われても知らんから。


「〜じゃないですか」という語尾になる場合、前提を話しかけている相手が承知している時にのみ有効なのであって、未知の事象をさも知って当然のように言われたところで返答に窮してしまいます。つまり先の例で言えば、前者は500円玉が落ちている状況だったら拾うという事を双方が想像できるので「〜じゃないですか」は念押しの意味として効果を発揮します。しかし後者のおいては犬を飼っている事をこちらが知らないのにも関わらず「〜じゃないですか」と言われても「そんなん知らんがな」と言葉にはしなくても思ってしまいませんか?


いつからか流行しだしたこの言葉、たまに使われる度に「じゃないですかって、お前そんなん俺が知るわきゃねーだろ」と突っ込みたくて仕方がないのですが、険悪なムードになるのは目に見えているので我慢の日々です。ほら、私って結構人を気遣うタイプじゃないですか。


もう1つは「〜けど」です。


普通の接続詞です。私も文章中に多用しております。しかし、何を思っているのかこれで止めちゃう人がいるんですよね。一番良く耳にするのが「ちょー受けるんだけど」とか「ちょー笑えるんですけど」とか。ほとんど同じ意味ですがね。


「けど」というのは逆接の接続詞であり、使用法としては「AですけどA'です」といった具合に、「けど」の後ろにはAとは逆の意味になるA'が付属されるのが必然なのです。「けど」で文章が終わるという状況はぶっちゃけありえないのです。例外として倒置を使った場合にのみ「けど」で文章を締め括る事が出来ますが、それにしても何処かに逆の意味であるA'が存在しているのです。


しかし彼らが使用している「けど」にはA'が存在していないのです。「ちょー受けるんだけど」で文章が終わる事はありえません。「けど」なんなのだと。「とても面白いのですが、私のファンキーフェイスの方が笑えませんか?」とでも補完しておけばいいのか!「すっげー笑えんだけど、もう死ぬって決めたから!止めても無駄だから!」とでも補完すれば満足なのか!とか考えている私がいるんです。うん、根絶やしにされちゃえばいいんだよな、俺な。


ところでセブンイレブンで期間限定販売されているメロンソーダが美味いんですけど。


と、若者言葉に違和感を抱く点に関しては、100歩譲ってサルサ踊って道頓堀川にダイブして無問題としても、文法的になんら間違いがない言葉に反応してしまうのはどうかと思うのです。


それが「頂戴いたします」という言葉です。


googleで検索かけるともう山のようにヒットしますし、日常的にも普遍的に使用されている言葉です。けれど、言葉のイメージからどうしても敬語に聞こえないのです。


だって「頂戴」ですよ?「いたします」と丁寧っぽくは言っていますけど、「頂戴」なんて言ったらお子様が親にねだる時くらいにしか使いませんよ?玩具屋でプラレールを欲するお子様が床で駄々をこねている姿が目に浮かぶようです。それでうっかり買い与えたもんだから、その子は鉄道マニアになって大学に8年通って中退してラジオの構成作家を務めて、30歳目前で童貞を捨てたいとかせっかく当選したTOTOの賞金をスペシャルウィークの企画で使われたりとかゲストに自分の母親を呼ばれたりとかする人に成長しちゃったりするんです。つーか誰の事ですか。すみません、悪ノリしすぎました。きっかけとか大嘘です。むしろ尊敬してます、Wさん。


ともあれ子供に限らず誰かが誰かにねだっているというイメージが先行して、「いたします」とか付けられても所詮「頂戴」だろ?クレクレ君だろ?とか思ってしまうわけですよ。自分の事ながら難儀な思考回路だな。


言語体系というのはとにかく難しいものです。時代の流れで新たに培われていく言葉がある一方で、流れに埋もれて消え去ってゆく言葉もあるのです。しかし言葉の根幹である文法を大事にしなければ大きな誤解を与えてしまう危険性もありますし、徹底しろとまでは言いませんがなるたけ言葉には気を遣っていきたいものです。


これが仮に幕末で流行ってたとしたらどうなんかな。維新志士の前に幕府の刺客が現れて「お命頂戴いたしたいんですけど。拙者の刀は親父の形見じゃないですか」とか言い出したらどうすんべ。私が維新志士だったら「『頂戴』だって?ぷっ、子供かお前は!それと『けど』で止めるなよ。ははーん、さてはその後に『拙者は雑魚であるゆえお主に斬り捨てられるのは明白!自ら切腹する覚悟を決めたゆえ見届け人になっていただけないだろうか!』と続くんだなー?最後に『じゃないですか』って、お前にあったの初めてなのにそんなの知るわけねーだろ」とか律儀に突っ込んじゃうんでしょうか。その間に斬られて死ぬな。