3月14日

明日は僕にとっては忘れられない日だ。


普通の人は「ホワイトデー」と答えるでしょう。僕も8年前まではそう思っていましたし、実際そう思っていたかった。でもそうじゃないんです。


8年前の16歳当時、僕には付き合っていた彼女がいました。名前はMとしておきます。そのMとは小学生時代からの同級生で、同じ中学に進学し卒業式の日に告白して付き合い始めました。丁度今頃の時期ですね。


Mはピアノが得意でした。僕がピアノ曲が好きなのは要因はMに違いありません。校内の合唱コンクールでピアノを演奏しているMはすごく魅力的でした。さりげない優しさに惹かれたのも一因ですが、Mへの恋心に気付いたのはこの時だったと思います。


残念ながら高校は別々になってしまいました。僕は男子校なので当然なのですが、Mの方は共学でした。示し合わせて受験した訳ではなかったのでこういった環境になってしまったのです。しかも通学路は完全に逆方向だったため、たまにデートでMに逢うのが本当に楽しみでした。


僕の高校は進学校だったので予習復習は大変で、部活でテニス部にも所属していたので時間はほとんどありませんでした。Mの方も似たような理由で、デートできるのは本当に稀でした。現在のように携帯電話も普及しておらず、Mの家の前まで行って約束を取り付けたりしていました。これくらいしていなければ関係は続いていなかったかもしれません。


夏休みに2泊3日で出かけたことは一生忘れられない思い出です。一日中Mと一緒に遊んで、夜遅くまでお喋りしていた事など充実した時間を過ごしました。冬休みは年末年始の郵便局でアルバイトをしました。女子は室内業務で男子は郵便配達と、逢う機会は少なかったものの初めて働いてアルバイト代を手にした時の感動と、そのお金で遊びに行ったのも良い思い出です。


あの頃の僕を今思うと青春していたなあ、という感じです。出来ることならあの頃に戻りたい。誰でも懐古の情に駆られることはあるでしょう?けれど、一方で戻りたくない気持ちもあるんです。


付き合い始めてもうすぐ1年になろうかという時期でした。忙しいだろうに、Mはわざわざバレンタインデーにチョコレートを渡してくれました。生まれて初めての本命チョコです、嬉しくないはずがありません。それはもう、群馬の県庁所在地(前橋市)で、愛をさけんでやりたいくらい狂喜乱舞していました。


初めて尽くしの1年が過ぎ、ほんのちょっとしか時間が経っていないホワイトデー。去年もこの日は通過していましたが、バレンタインデーに貰うべきものを貰っていなかったのでスルーしていました。まだちょっと恥ずかしかったのもありますけど。かなりの数の初めてを通過してなお残っていたイベント、それがホワイトデーのお返しでした。


僕は悩みに悩みました。それまでは姉に義理チョコを貰って適当に飴をくれてやるくらいだったのですが、それが彼女となれば話は別です。心を込めて贈ってくれたチョコレートに釣り合う、いや3倍返しが基本ですからそれ以上のものを用意しなければなりません。アルバイト代が入ったとはいえ、所詮は高校生の時給では高が知れています。お金で買えない価値がある「priceless」なモノを求めて頭を悩ませておりました。今は便利な言葉があるものですね。


結局大した案も思い付かず、駅前のちょっとしたデパートで何だかよくわからない名前のお菓子を買ってきました。自分の好みで決めてしまったけれど、一年の付き合いでそれが少なくともマイナス評価をされることはない確信はありました。実際、店内でもかなり悩んでましたし。


あとは渡すだけ。付き合って長いのに改めて渡すとなるとやはり勇気がいるものです。しかしMだって勇気を振り絞ってチョコレートを渡してくれたのに違いありませんから、それに応えるのは彼氏として当然乗り越えなければならない壁です、挑まない訳にはいきません。


部活を終えた僕は、遅刻しそうな時よりも一所懸命自転車を漕いでMの帰路に先回りしました。いつもこんな生活を繰り返していたら体が持ちません。新鮮味もありませんしね。サプライズを演出するにはうってつけだったと言えます。


しかし待てど暮らせどMは現れませんでした。何か用事があって遅くなっているかもしれないとも思いましたが、いくらなんでも遅すぎました。とうに日は暮れ、時計の針は短い方が8を回っていました。


よもやMは既に帰ってしまったのか、もしくは病気か何かで学校を休んだのかもしれません。そう思った僕はMの家へと向かったのです。


そこでも僕は目を疑いたくなるような光景を目にしました。Mの家の前にパトカーが停まっているではありませんか!空き巣でも入ったのでしょうか?いや、そんな雰囲気にはとても見えません。周りには野次馬でしょう、近所の人達が集まって何やら話していました。耳を欹てて話を聞いてみると、今度は耳を疑いました。


「ここの娘さんが事故に遭ったらしいわよ」


Mは長女で弟が一人しかいません。つまり、Mの家庭で娘と呼ばれる人物はM本人以外にありえません。それが・・・事故?


思うが早いか、Mの家のチャイムを鳴らしていました。普段は恥ずかしくて合図を送っていたのに、この時にそんな気持ちは全く無くボタンを押下していました。間もなくドアの向こう側から、Mの両親が現れました。母親の方は涙で顔を濡らし、父親の方ははっきりとうなだれているのがわかりました。その時点で良い返事は期待できないことがわかっていたのに、義務であるかのように僕は質問をしました。


「なにが・・・あったんでしょうか・・・」


そこからの記憶はあまりありません。後で何度も聞いた情報を総合すると、Mは学校から帰る途中に交通事故に遭ってしまったらしいのです。横断歩道を自転車で走行している途中、信号無視して猛スピードで交差点に突っ込んできたトラックに撥ねられたと聞きました。即死だったそうです。


茫然自失になり数日は何をやっていても、そこには空っぽの自分がいました。ただ生きているだけの木偶人形同然でした。徐々に事実が脳に浸透するにつれ、涙の量は日を重ねる毎に増えていきました。見かねた姉が心配して何か言葉をかけてきましたが、その時の僕にとってどんな言葉も慰めにはならず、酷いことに暴言を吐いて姉を追っ払っていました。


悲しみに暮れる日々が過ぎ、手元に残ったMに渡すはずだったお菓子。とうに賞味期限は過ぎていてとても食べられるものじゃありませんでしたが、捨てるに捨てられませんでした。


49日も過ぎたある日、僕はMの両親から呼び出されました。何事かと思いつつも断る理由も無いので、ついこの間までしょっちゅう通っていたのに足遠くなっていたMの家を久方振りに訪ねました。


そこで日記帳を見せられました。Mの日記帳です。両親が遺品の整理をしていたところ、Mの机の引き出しから見付けたそうです。天国にいるであろうMに悪いとは思いつつ、日記を読ませてもらいました。


そこに綴ってあった数々の言葉。今までの僕と一緒に過ごしてきた思い出が沢山、本当に沢山輝いていました。楽しかった思い出は文字も躍っているようで、喧嘩したときの話は文字も怒っているように見えました。そんな風に過去を思い出しつつ読み進めているうちに、また涙が止め処なく溢れ出てきてしまいました。そんな僕を見て、母親の方ももらい泣きを始めてしまい、父親の方はぐっと堪えている様子でした。


「これは君に持っていて欲しい」とMの両親に言われ、僕はこの日記を貰ってMの家を出ました。大事に抱え自宅に帰り、再読して涙しました。心ならずも最後の記帳になってしまった3月13日、その日はこんな言葉で締め括られていました。


「明日はホワイトデーだけど、何がもらえるかなっ?楽しみっ☆」


声を上げて泣きました。何事かと思った姉が部屋に飛び込んできましたが、何があったか察したようで無言で部屋を出て行きました。姉にも迷惑をかけていたと思います。


その後、捨てられずに取っておいた、Mに渡すはずだったお菓子を食べました。相当痛んでおり、直後腹痛に見舞われ救急車まで呼ばれる騒ぎになってしまいました。家族も深く理由は聞いてきませんでした。大方の予想はついたのでしょう。


叶う事なら、Mにお返しがしたいです。


僕にとって3月14日は彼女の命日です。あれ以来、Mのように僕が好意を寄せた女性はいません。